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Sunday, May 16, 2021

終わりなきジャパニーズ・シティ・ポップ:70・80年代のヒット曲はなぜいまヴァイラルしたのか - WIRED.jp

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キャット・チャン

エグゼクティブ・エディトリアル・アシスタント。

2020年も終わりに近づいたころ、1979年のジャパニーズポップスの曲が「Spotify」の「バイラルチャート」で1位を獲得した。「真夜中のドア〜stay with me」と題されたこの曲を歌うのは、当時19歳だった松原みきだ。

夜明けの街をオープンカーに乗って走るような爽やかな雰囲気をもつこの曲は、ファンキーなベースラインと陽気なホーンセクションにのった、ものうげなシンガーのヴォーカルにキラキラしたアレンジが施されている。シンガーは日本語と英語を交えながら心変わりした恋人に帰らないでと呼びかけ、前夜の彼との記憶を忘れられずに繰り返す。

この曲が最初に現れたのは2020年10月、「TikTok」のアニメ日本文化のエリアだったが、公式にピークとなったのはその6週間後、12月初旬のことだ。日系のTikTokのクリエイターたちが、自分たちの母親にその曲を聞かせてヴィデオを撮り始めた。母親たちは自分の若い頃のヒット曲を聴いて、パッと顔を輝かせる。その姿は本当にかわいらしくてたまらない。母親たちはうっとりと目を閉じ、カラオケに行ったときのように声を張りあげて歌いながら踊り続けるのだ。

「真夜中のドア〜stay with me」のヴァイラルな成功により、シティ・ポップに対する世界的な関心がまた高まっている。シティ・ポップとは、1970年代後期から80年代ごろに流行したR&Bやジャズの影響を受けたジャパニーズポップスをざっくりくくっていうジャンルのことだ。

当時、日本は世界第2位の経済規模を誇り、その企業力と最先端の工業力で、欧米を追い抜こうとする勢いだった。上昇志向の日本市民たちはブランドもののファッションや輸入ワイン、海外旅行に惜しげもなく金を使い、空前の自由を満喫していた。ソニーのウォークマンや、より高級なカーステレオの登場により、人々は音楽も自由に外へ持ち出せるようになった。

突然、街なかの散策や週末のドライヴが、まるで映画の中にいるようなロマンティックな輝きを帯び始めた。シティ・ポップは都市型ライフスタイルのサウンドトラックとして注目されるようになった。そのカテゴリーの曲は溢れんばかりにキラキラと華やかなものが多く、ファンクやヨットロック、ブギ、ラウンジミュージックといった米国スタイルの音楽からインスピレーションを得ていた。

カリフォルニアの明るいノリをまねたその逃避主義的な音楽センスを体現していたのが、シティ・ポップを代表するデザイナーのひとりである永井博が描く、陽光に満ちたアルバムカヴァーだ。キラキラ輝く青い海にしゃれたクルマ、パステルカラーの建物は、海で過ごす週末の休暇といった空想の世界を人々の心に呼び覚ました。

だがシティ・ポップの体現する輝きと気楽さは、すぐに時代遅れになった。90年代に入ると日本経済のバブルがはじけ、日本は「失われた10年」に突入していったからだ。

日本では意外と知られていない「シティ・ポップ」

最近の街頭インタヴューで、シティ・ポップのジャンルに入ると一般的に思われているアーティストの認知度は高くても、「シティ・ポップ」という言葉は日本の一般的な市民にはあまりなじみがないことが明らかになっている。「妻はその世代の人間なんですが、シティ・ポップについて説明が必要でした」とジェイソン・チュンは言う。

チュンはハワイ大学ウエストオアフ校の教授で、日本のポップミュージックとアニメについて教えている。「当時、人々はシティ・ポップのことを、ただ音楽と呼んでいました」。だがここ2、3年のうちに、現在シティ・ポップとして知られている音楽が欧米でリヴァイヴァルし始めたのだ。

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