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Sunday, May 8, 2022

「悲しい出来事は終わりにしたい」語り部バス続けるホテルマン - 産経ニュース

南三陸ホテル観洋で「語り部バス」を続ける伊藤文夫さん=宮城県南三陸町(奥原慎平撮影)

宮城県 南三陸ホテル観洋渉外部長 伊藤文夫さん(79)

南三陸ホテル観洋(宮城県南三陸町)が毎朝運行する「語り部バス」で、東日本大震災の津波被害の惨状を宿泊客に伝えている。

「私の集落にもまだ見つかっていない人が14人いる。親やきょうだいのように尊敬していた人がこの中にいる。なかなか、見つからなくてね…」

震災から11年。語り部バスの回数は優に1000を超えた。それでも無念さがこみ上げ、ガイドの途中にたびたび声を震わせる。町全体の死者・行方不明者は800人を超え、多くの知り合いが含まれている。

4階近くまで浸水した結婚式場「高野会館」は職員が会館から逃げようとする人を屋上に退避させ、327人と犬2匹が救われた。「美談」の陰に、数人が職員の制止を振り切って帰宅して津波に流された。3階建ての防災対策庁舎は町役場幹部らが屋上に避難したが、津波の高さはその屋上を超え、43人が犠牲になった。ほとんどが顔なじみだった。

なぜこれだけの犠牲が出たのか。考えられる要因の一つが「油断」だという。

内陸部では家に残ったまま津波に飲み込まれた人も少なくなかった。自身が暮らす集落も海から約1キロ離れていたが、ほとんどの家が津波に流された。約80世帯の集落の死者・行方不明者数は49人にのぼった。

昭和35(1960)年のチリ地震津波が内陸部に到達しなかったという経験が慢心を招いたかもしれないと感じている。「チリ地震で津波の到達地点は最大でこれくらいと考えてしまった人が多かったのではないか」と振り返る。

一度避難した後、位牌(いはい)や着替えを自宅に取りに帰り、津波に流されたケースも多かった。

「いったん高台に逃げたら、後は絶対に戻らない。これが津波避難の鉄則だ。彼らもそれを分かっていたはずなのに」

同級生の親友を思い出し悔しさをにじませる。同級生は位牌を持ち帰ろうと退避先の高台から家に戻ってしまい、そこで津波に流された。葬式では思わず親友に怒りがこみ上げてきたという。

「(遺族が)棺を開けて(同級生の)顔を見せてくれた。『かわいそう』というより『ばか野郎、何だその様は』と言いたかった」

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