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Sunday, December 13, 2020

問題作『もう終わりにしよう。』は難解な映画ではない? この映画を解釈するのは終わりにしよう。 - IGN JAPAN


間もなく、帰省シーズン。これから紹介する、Netflixのオリジナル映画『もう終わりにしよう。』は、そんな帰郷にまつわる恐怖を描く作品である。けれど、本作の主眼は、これまで多くの作品で描かれてきた、ローカルな価値観や風俗によって生じる、田舎あるあるネタとしての怖さではない。

家とセットで存在するもの、それは家族だ。本作の主人公は、恋人の実家を訪ねようとする、女性である。そこは、実質、他人の家。まさに異界である。自分以外の人は、過去を共有しているから、多少なりとも親密な関係がある中で、どうしても取り残される<お客様>という役割を与えられてしまう。パートナーの家に行って、そういう居心地の悪さを経験した人は、けっして少なくないはずだ。

主人公カップルが、彼の実家を訪ねようとするドライブから物語は始まる。それは、二人にとって初めての旅行。けれども、彼女には、スイートな気持ちはない。彼女の心は、「彼とは、もう終わりにしよう」と決まっているのに、純粋な好奇心から彼の両親に会ってみようと、ちょっと意地悪な感情で動いている。車中は、感情の不一致で生じる気詰りな雰囲気で、窒息しそうに重たい。

物語は、ブラックユーモアに富んだ会話劇で進行していく。ボーイフレンドに抱く価値観の違い、ささいな行動への不快感。そういう歪さは、ストレスフルな感情という形をとりながら、雪のように、次第に各々の胸に降り積もっていく。

女性役を、『ワイルド・ローズ』(2018)で注目を集めた、新進女優のジェシー・バックリーが演じている。一方の相手役、ボーイフレンドのジェイクには、ジェシー・プレモンスという配役。ダイレクトな別れ話を切り出そうとはせずに、ちぐはぐな情感を醸し出すカップルの造形は、この二人の掛け合いによる貢献が大きい。本作は、ストレンジなラブロマンスであり、究極の薄ら寒さをあぶり出した作品だ。

そんなイアン・リード原作を映像化してみせたのは、チャーリー・カウフマン。カウフマンは、脚本家として『マルコビッチの穴』(1999)でキャリアをスタートさせた。その後は、製作総指揮としても映画制作に携わるようになり、ついには『脳内ニューヨーク』(2008)で、監督デビューを果たす。本作が、三作目の監督作品。彼の持ち味である、ミニマルな演劇作品のような会話劇とストレンジなシチュエーションをブレンドした、集大成ともいえるブラックコメディに仕上がっている。

9月配信の作品にも関わらず、なぜこのタイミングでピックアップしたのか?

さて、本作がNetflixで配信されたのは、今年9月である。主要なメディアからは、もはや大筋でのレビューが出揃っているのに、なんでまた、このタイミングで記事を書いたのか? 挑発的に、どれもが的外れだったから、とは無論云うまい。けれども、ミステリアスな本作に対する、謎解きや解釈に言及するばかりで、作品を理解の範疇におさめようとする論調に、違和感を感じたのは事実である。表層的なシリアスさに気をとられ、ユーモラスに捉えることができない、ゆとりを欠いた文章が多すぎる。

そもそも、私たちはなぜ映画を解釈しようとしてしまうのか? いわゆる難解映画は、解釈をしようとする鑑賞態度を生みやすい。だが本作は、解釈という思考パターンに飲まれずに、物語の流れにひたすら身を任せることで、私たちの実人生の記憶と物語が混じり合う、稀有な作品である。

難解映画こそ、実のところはシンプル?

ややもすると、本作は難解映画とカテゴライズされてしまうが、果たしてそうだろうか? 世にいう難解映画とは、実のところ、シンプルな構造によって成り立っている。なぜなら、テーマがトリック要素に直結しており、それさえ解けてしまえば、作品の本質が理解できるからだ。

例えば、クリストファー・ノーラン、M・ナイト・シャマラン、スタンリー・キューブリックらの作品は、そのロジックさえ理解できてしまえば、まるでパズルが解けるように、ひとつの正解へと辿り着く。観客にとっても、それが自分の選んだ正解、つまり解釈となる。私たちは、頭に明晰さが生じた万能感に包まれ、カタルシス効果を得られるというわけだ。

本作には、解釈という思考パターンでいる限りは、辿り着くことのできない一線がある。解釈とは、自分たちの理解の範疇に作品を置き、その外側に立ってこそ、安心感が得られるという姿勢だからだ。本作は、それを許さない。

ストレンジな展開は、笑いと怖いのスレスレをいく

主人公は、当初の目的地、彼の実家である農家に辿り着く。そこで、「さあ家族とご対面」と思いきや、彼女はいきなり陰鬱な家畜小屋へと連れていかれる。そこでは、羊が凍りついた死体と化しており、空っぽの豚小屋には蛆がわいている。純粋なホラー映画だとしたら、「私は殺されるんじゃないか?」とおもう場面である。だが、本作においては、ただ事実を告げるのみ。農場では、家畜が死ぬこともあるのだと。なにもかも、時と場合が、おかしい。その後、食卓でメインディッシュとして出されるのは、ローストポークである。

食卓のシーンになると、今度は、家族全員が互いの気持ちを推し量ることなく、思い思いの想念を口にしていく。安っぽい芸術論、下品な下ネタ、カップルのなりそめ。それらは、およそ初対面では、口にするのも憚られるようなことばかりだ。

そんな食事が進むにつれて、これまで本作の主人公として私たちが了解していた、女性の存在感は奥へと引っ込んでしまう。私たちの感情移入を意図的に阻害するように、彼女は今までのシニカルなスタンスを鞍替えし、あくまで気立てのよいガールフレンドという役割を場で振舞いはじめる。

「自分が誰かすら分からない」、「どこまでが私で? どこから彼?」、「ピンボールの気分」、「情緒がめちゃくちゃ」

これは、作中の主人公女性の台詞だ。彼女のパーソナリティの境界は、非常に曖昧に揺らいでいる。私たちは、映画のキャラクターに対して、当然のように一貫性を期待してしまうわけだが、そんな前提にも、本作は疑いをかけてくる。

その場は、ジェイクだけが居心地が悪い、彼のフォークとナイフが進まない食卓へと変貌する。すると、これまでは、頼りなくて、人間味がないという描き方をされてきた、そのボーイフレンドのほうに私たちの同情心は傾いていく。今や彼は、両親から幼少時代の失敗談を蒸し返され、高慢ちきなガールフレンドから上から目線で笑われる、袋の鼠だからだ。その一方で、受け手である私たちは「おいおい、こんな展開はありえないだろ」と、相反する思いを抱く。

解釈するのではなく、奇妙さを楽しむ映画

本作において、映画文法は、徹底的に破壊されている。あらゆる場面が、唐突すぎるのだ。一定のシークエンスに、均一化もされていない。観る者を置き去りにするような過剰に緩慢なシーン、はたまた、「あれは一体なんだったのか?」と気がかりなほど、あっさりと過ぎ去るシーンと、どれも体裁が悪いのだ。

しかも、その全てに意味があるとも思えない。いや、たとえ意味はあったとしても、その多くは、そもそも登場人物にすら事態が分かっていない、意味なのだ。だから、私たちに分からなかったとしても、しょうがないことなのである。幾つかは、ほんとうに、ただの不可思議なできごとと捉えるしかないだろう。

監督のカウフマンはまた、ロジカルに場面を繋ごうともしない。だから私たちは、あるがまま映像の流れに身を任せるしかない。できるのは、目撃することだけ。それは、ミュージックビデオを観ているときの感覚とも似ている。不思議なことに、私たちは、ミュージックビデオに対しては、よく分からないという文句をつけたりはしない。それが、極めて掴みがたい音楽の世界観から喚起された、ビジュアル表現だと理解しているからだ。

ところが、映画となると話は変わってくる。私たちは理解できることを求めるし、理解できない作品は、つまらない映画だと感じたりもする。長らく映画は、劇場に足を運び、一作品の鑑賞券を購入し、鑑賞するものだった。だからこそ、時間と金の問題にはシビアなのだ。しかし、狡猾な映像作家であるカウフマンは、劇場上映作品ではない、配信映画というフォーマットを逆手にとっている可能性すらもある。本作が気に入らなかったら、また気分が乗らなかったら、最後まで鑑賞する必要はないのかもしれない。自分のアンテナとは波長が合わなかった、音楽のように。

クリストファー・ノーランとは異なる時間へのこだわり

今年後半、観客にインパクトを与え、話題を独占した洋画といえば、まずは『テネット』が思い浮かぶ。監督のクリストファー・ノーランは、手を変え品を変え、時間というモチーフにこだわりつづけながら、作品にオリジナリティを宿してきた。

だが、ノーランの場合、映画コンセプトに関わる解答は、彼の頭脳にしかなく、映像内では断片的にしか答えない。それに対して、本作は散りばめた様々な謎の答えを、映像としては明示していく。だから、仮によく分からない部分があったとしても、鑑賞後にネタバレサイトで解を求めれば、何から何まで説明はしてくれるだろう。だがしかし、もやもやとしたエモーションは残るはずだ。本作は、鑑賞の重きが理解の範疇にある限り、どこまでも不愉快な作品なのだ。

本作にとって、難解さはフレーバーに過ぎない。細部と全体。木の葉を隠すなら森の中のごとく、謎という細部に気をとられている内に、私たちの意識は得体の知れない感覚に包まれていく。チャーリー・カウフマンもまた、ノーランとは種類の異なる時間感覚を描きつづけ、自身のフィルモグラフィーを彩ってきた作家である。

カウフマンにとって、時間という概念は、直線的に流れるものという、いわゆる生命の流れに即した形をとっていない。むしろ、思考によって伸縮するもので、それが生き物全般に相対的に流れているという事実は知っていても、重きを置いてはいないか、蔑ろにさえする。だから、彼の描く世界観においては、作中人物たちが、時間または空間を誰かと分かち合うことに対して、まったく信頼を置いていない。一人で過ごす以外の時間は、極めて緩慢にもなり得るし、ひたすら無為に降り積もっていくという哲学さえ感じられる。

奇妙な家族ではなく、家族の奇妙さを描くということ

例えば、ホラー映画は、奇妙な家族を描こうとする。そこで、どんなに恐ろしいこと、残虐なことが起ころうとも、ジャンル映画の範疇においての了解が生じている。だが、本作が描いているのは、家族の奇妙さのほうだ。普通の家族、その普通とはなんなのか。あるいは、家族を建前にして、他人と一緒に暮らすことは、ほんとうに普通のことなのか。原作者のイアン・リードが書くように、<現実を乱して、分断させるものこそが怖い>のだ。

そうして生じたズレは、観る者を煙に巻く話法となり、物語を想定範囲内のあるべき形には進ませない。あえて我々をイライラさせ、負荷を与えることで、定形的な思考パターンに揺さぶりをかけてくる。登場人物たちもまた、ストレスフルな状況へと置かれている。そこで為される会話は、無言でいることの気まずさに耐えきれず、とりあえず見切り発車でスタートしてしまったかのような、空々しさに包まれている。

人間がつい無自覚に行ってしまうもの、それはコミュニケーションなのかもしれない。言葉によって、人同士は確かめ合うことができる。それは、ほんとうだろうか? その疑いのなさ、不確かさにこそ、本作はスポットを当てている。家族を代表とする、社会的役割の基盤の化けの皮を剥がそうとする。そして、カップルというロマンチックな対象にも、話は及ぶわけだ。

一見すると、本作のタイトルは、恋人との関係を終わりにしよう、ということである。しかし、本作に通奏低音のように流れるのは、そんな気分を抱えたまま、漫然と人生が失われていく弛緩したムードだ。頭の中で考えていること、その多くは、口から発されることがないまま、私たちの頭の中で死んでいく。同じように、他者にも、頭の中で考えていることがあるはずだ。もし、それを頭の中で閉じ込めず、絶えず、発話したら、人間の関係性とは、どうなるのか? 本作は、そんな境地を映像化した実験作となっている。

私が私の人生の主役であるように、彼らも彼らの人生の主役である。普段は、そのように相対的に理解できている事柄を、本作はまざまざと目撃させ、コミュニケーションの不確かさを描いた。彼らとは、映画のキャラクターかもしれないし、現実世界の住民かもしれない。いや、私すら、彼らかもしれない。ボーダレスにそう感じる瞬間は、もっともリアルで、恐ろしいはずだ。それこそが、物語と人生が響き合った瞬間だからである。

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