42人が亡くなり、600人以上が重軽傷を負った信楽高原鉄道事故は、14日でちょうど30年を迎えた。尊敬する6歳上の姉を失い、鉄道事故の防止に向けた活動に加わった臼井
「何年たっても、家族を突然失った悲しみが癒えることはない」
姉の信子さん(当時26歳)を亡くした慈華子さんは14日、京都市の自宅で、仏壇に手を合わせた。毎日のように姉の写真に語りかけ、陶芸をしていた姉が作ったカップでコーヒーを飲む。「今も、いつも一緒にいる感じです」
信子さんは、嵯峨美術短大の陶芸研究科を修了し、海外にも積極的に足を延ばして各国の陶器に触れるなど、探究心あふれる努力家だったという。宇治茶の老舗「福寿園」の陶器デザイナーとして嘱望されたが、仕事の一環で、信楽町(現・甲賀市)で開かれていた「世界陶芸祭」に行く途中に事故に遭った。
京都市の自宅を普段通り「行ってきます」と言って出かける信子さんを見送ったのは、母の泰子さん(78)だった。「日本でこんな事故が起きるとは思ってもいなかった」と振り返る。
事故後、父の和男さんは他の遺族らとともに1993年、鉄道安全推進会議(TASK)を設立し、初代会長に就任。鉄道事故が起こるたびに現場を訪ねたほか、外国の調査機関について調べるなどして国に粘り強く働きかけ、国の「航空・鉄道事故調査委員会」の設立に尽力した。
慈華子さんは、和男さんの活動を尊敬しながらも、TASKの活動とは距離を置いていた。「突然、夢を絶たれてしまった」姉の死を受け入れられずにいたからだ。
心境が変わったのは2005年のことだ。和男さんが2月に急逝。同年4月にはJR福知山線脱線事故が起きた。「命を削ってまで父がやってきたことが、無駄になったのではないか」
大きなショックを受け、父の遺志を継ぐことを決意。19年のTASK解散まで、事故の調査や被害者支援を国に訴え続けた。
活動を通じて、大切な人を失った悲しみを抱えながら、声を出し続ける大変さを身をもって感じた。一方で、「誰かが声を出さないと何も変わらない。声を出し続けることが大切」との思いも強くした。
ただ、風化を防ぐには、遺族が語り継ぐだけでは限界があるとも感じている。「事故を知る人は、いずれいなくなる。(鉄道事業者を含め)すべての人が安全への意識を強く持たないといけない。安全の追求に終わりはありません」
からの記事と詳細 ( 安全の追求 終わりない - 読売新聞 )
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