東京電力福島第一原発事故の後、福島から避難している被災者は、神奈川県内に約1800人いる。7月には国と東電に損害賠償を求める集団訴訟の「第二陣」の審理が始まり、8月には岸田文雄首相が原発の新増設や建て替えについて検討を進める考えを表明。避難生活が長期化するなか、原発事故避難者の苦悩は続く。
岸田首相が示した「原発回帰」の方向性が正式な政府方針となれば、2011年の福島第一原発事故以来の「大転換」となる。
「正気の沙汰ではない」。県内の原発事故避難者による損害賠償請求訴訟の原告団長を務める村田弘さん(79)は、首相発言に怒りを爆発させる。「僕たち原発事故避難者に対する国の責任も認めず、原発の新設や増設に言及するとは。もうこれ以上、我々を侮辱するなと強く言いたい」
村田さんは03年に首都圏から福島県南相馬市に移住し、老後生活を楽しむさなかに原発事故に遭遇。次女を頼って神奈川県内に避難した。今なお南相馬に戻れる見通しは立たず、自宅も畑も荒れ果てる一方だ。
13年、村田さんを含む60世帯175人が仕事や生活基盤を奪われたとして東電と国を相手取り提訴。19年2月、横浜地裁(中平健裁判長)は計約4億2千万円の賠償支払いを命じたが、双方が控訴し、東京高裁で審理が続いている。
年月たち 原告には遺族も
さらに昨年9月には「第二陣」として、福島市や南相馬市などから県に避難した5世帯16人が国と東電を提訴。今年7月に横浜地裁で第一回口頭弁論が開かれ、審理が始まった。
第二陣には、3世帯が「遺族」の立場から原告に名を連ねた。事故後に他界した男性の代わりに、親が原告団に加わったケースもある。黒沢知弘弁護士は「事故から経過した長い時間の重みが凝縮している」と語る。
2世帯は「母子避難者」の立場から声を上げた。未就学児の長男を連れて福島市から横浜市に避難した40代の女性は「毎日、生きることに必死でした」。事故直後に関東へ避難してのち、ほどなくして離婚。避難指示区域外からだったため公的支援はほぼ得られず、避難先で「ワンオペ育児」をしながら生計を立てなくてはならなかった。
「福島では復興のために力を合わせて頑張っているのに、あなたはここで何をしているの?」。勤務先の店で客から批判も受けた。悔しかったが言葉をのみ込んだ。女性は言う。「子どもの命を守りたい一心で避難したのに『勝手に避難した』と冷たい目で見られてきた。自分のように思いを押し殺して生きる人たちのために、声を上げました」
50代の女性は3人の子どもを連れて川俣町から県内に避難した。夫は仕事があるため故郷に残った。一家で過ごせるのは年に数回だけ。夫を見送る時はいつも身を切られるようだ。「家族がバラバラになってしまい、つらい生活を送る人はたくさんいる。なのに納得のいかない政策が続き、この生活に終わりが見えない。この苦しみを分かって欲しい」
6月には福島第一原発事故の避難者による集団訴訟で、最高裁が国の責任を認めない判決を言い渡した。村田さんは「最高裁の誤りを明らかにし、原発事故のない社会を次世代に引き継がなくては」と話す。
黒沢弁護士は「不条理な状況を11年も耐えたのに、救済が全く機能していない。苦しみが解消されないことへの危機感が第二陣の16人の原動力だ。今も続いている原発事故被害の実相を、全力を挙げて明らかにしていく」。(浜田奈美)
からの記事と詳細 ( 原発避難、終わり見えぬ苦しみ 新増設検討「これ以上、侮辱するな」:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル )
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