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Monday, November 21, 2022

津波で「終わりだ」と言われたうどん店を再生 瀧さわ家2代目が定めた理念 | ツギノジダイ - ツギノジダイ

 「稲庭うどん瀧さわ家」は1987年、秋田県出身だった先代の父・勝城(かつしろ)さんが「秋田の名産である稲庭うどんのおいしさを皆に知ってもらいたい」という思いから、今の場所に立ち上げました。当時、勝城さんは自営で建設業を営んでおり、飲食業とは無縁でした。

 しかし勝城さんの実家と、稲庭うどん製造の老舗である佐藤養助商店(秋田県湯沢市)とのつながりがあったことから、佐藤養助の名を冠した独立店「佐藤養助 松島店」の事業がスタートします。

創業当時、秋田の佐藤養助商店前にて

 スタート時の店の規模は今より小さく、席数は35ほど。観光客向けというよりは、地元の人に愛される店だったそうです。

 瀧澤さんは長男で、当時中学2年生。漠然と「将来は店を継ぐんだろうな」という思いがあったといいます。その思いは高校卒業後も消えることなく、18歳で調理師学校へ進学。19歳からは懐石料理店で板前修業を始めます。

 そうした瀧澤さんの姿を見た両親から、明確な言葉はありませんでした。けれど、「両親もきっと、ゆくゆくは継いでくれるだろうと思っていたんじゃないでしょうか」と瀧澤さんは振り返ります。

 そんな瀧澤さんに転機が訪れたのが、25歳の時でした。知人の紹介で健康食品の営業販売の仕事に出会い、その面白さにのめり込みます。結果、瀧澤さんは板前を辞め、料理の道からも実家のある宮城県からも遠ざかりました。

インタビューに答える瀧澤さん

 「板前の頃とは比較できないほど収入も増えましたし、とにかく仕事が楽しかった。もう料理の世界、家業には戻れないと思いましたね」

 てっきり板前修業を終えたら実家を継いでくれるものと期待していた両親は落胆し、最終的には「崇が楽しそうならもうそれでいい。この店は自分たちの代で終わりだな」と言っていたそうです。

 再び転機が訪れたのは、2011年の3月に起こった東日本大震災でした。健康食品の販売を始めて12年、瀧澤さんは37歳になっていました。

津波の高さを示す店内の貼り紙

 店内に津波が押し寄せ、1m45cmの高さまで浸水。店は壊滅状態に陥り、両親は「もう店はやらない。終わりだ」そう話していたといいます。瀧澤さん自身、被災直後はそう感じていました。

津波被害を受けた店舗の様子(瀧澤さん提供)

 ところが店の片付けをしているうちに、店の常連客からは何度も「再開したらまた来るね」という言葉をかけられました。また当時つきあっていた妻の後押しもあり、徐々に店舗再建に向けての意欲を燃やすように。両親とも話し合った結果、親子で協力しながら立て直すことを決意しました。

 とはいえ震災前から、店の経営状態は決して順調ではありませんでした。多額の買掛金など「負の遺産」があることを、瀧澤さんは家業に入って初めて知ったそうです。

 2006年には経営不振を理由に佐藤養助商店のチェーン店に加盟。独立店からチェーン店入りすることで、経営の安定化を図った歴史もありました。

 こうした経営課題を解決するため、瀧澤さんは復旧作業と同時に店の大幅リニューアルに取り組みます。最初に手を付けたのは、目指すべきビジョンの設定でした。

 「成功している経営者には必ずビジョンがあります。『この商品を使って世の中を、社会を良くしたい』というようなね。小手先の利益だけを求めて成功している人なんていない、私はこれを販売の仕事で学びました」

 「稲庭うどん瀧さわ家」という店が地域に、世の中にとってなぜ必要なのか、どうあれば必要とされるのか。そうした着眼点から考えた結果、ひとつの導き出された答えが「和の文化を次世代へつなげていく」ことだったそうです。

 「目的が決まれば、到達するための方法はいくつもありますから。後はそれを着々と実行に移していくだけです」

 2011年3月に被災してから5カ月休業して修復とリニューアルを進めました。同年8月、チェーンから独立し、「稲庭うどん 瀧さわ家」として新たなスタートを切りました。

震災で店外まで流された木のテーブル。綺麗にして再利用している

 どの客席からも眺められる庭にはコケを植え、紅葉などの植木を整えてわびさびを感じられる雰囲気に。

どの客席からも眺められる庭

 店内には東北地方に伝わる火の守り神「釜神様」を飾られています。それと同時に軽快なジャズの音色が響き、伝統とモダンさが同居している印象を受けます。これは、「若い人がデートでも利用できるような、洗練された雰囲気も意識した」そう。実際、「稲庭うどん瀧さわ家」には幅広い年齢層の客が来店し、若い人も少なくありません。

柱に飾られた「釜神様」は外国人観光客に大人気だとか

 日本三景である松島からのアクセスもよいことから、国内外の観光客もぐっと増えました。地域の人たちに愛される店から、より広い層の人たちに同店の稲庭うどんを届けることができるようになりました。

 もう一つの大きな改革が、リニューアルを機に製麺所とタッグを組んで共同開発したオリジナル麺です。瀧澤さんの料理人としての腕と味覚を生かして考え出したレシピで、オリジナル麺を作ってくれる製麺所を探しました。

 「うちの麺は、他の稲庭うどんよりもコシが強いんです。稲庭うどんって細くてのど越しが良い分、コシが弱いって皆さん思われるんですが、うちの麺は加水率や小麦の寝かせ方などを調整してその弱点を克服しています。あたたかい麺でもちゃんとコシを感じるおいしいうどんに仕上がっていますので、ぜひ多くの方に食べてみてもらいたいですね」

看板メニューの1つ「天ぷらうどん」(稲庭うどん瀧さ提供提供)

 オリジナルの麺を開発し、メニューも一新。とくに人気が高いのは天ぷらうどんだそう。季節によっては、地場で採れるカキやほやを使った天ぷらを提供することもあります。

 こうした努力が実を結び、売り上げも客数もリニューアル前の倍以上に増えました。年間3万人もの客が訪れるようになり、2017年にはミシュランガイドのビブグルマン(価格以上の満足感が得られる料理)に認定されるまでになりました。

 経営が軌道に乗ってきた一方で、瀧澤さんの立場はあくまで専従者のまま。父である勝城さんとの間で、事業承継がスムーズに進まないといった実態もありました。

 「親子ってやっぱり、うまくいかないんですよ。親にとって子どもはいつまでも子どもだし、子どもは子どもで自分の方がうまくやれる! って思ってる。ぶつかってばかりで、なかなか話が進みませんでした」

インタビューに答える瀧澤さん

 親子で協力して店を立て直す――そう決意したものの、いざ営業が始まると勝城さんは瀧澤さんの提案になかなか耳を貸さない。瀧澤さんもまた、そうした勝城さんの態度に反発してしまう。一つの店の中に、勝城さんと瀧澤さん、2通りのスタンダードが存在し、働く人たちも迷う状況が数年続きました。

 そんななかでたまたま、国の委託事業で承継の悩みの相談を受け付けている「宮城県事業承継・引継ぎ支援センター」の存在を知り、専門家を介しての事業承継が進められました。

 「引き継ぎ支援センターで人柄の良い弁護士の先生と出会い、父と円滑に話し合いが進むよう尽力してもらいました」と瀧澤さん。弁護士は双方と個別に面談の機会を設け、それぞれの意見や思いを根気強く聞いてくれたそうです。

 瀧澤さんからの投げかけには応じなかった勝城さんも、弁護士の話にはよく耳を傾け、最終的には「息子に店を任せる」と心を決めたそう。数年もの間膠着状態だった引き継ぎが、面談からたった2カ月ほどで事業継承に向けた覚書の作成にまで進みました。

 「弁護士の先生が頻繁に店に足を運んでくださって、父と一緒に店舗前のゴミ拾いまでしてくれてね。ゴミ拾いしながら『息子さんが頑張ってるから、お店もどんどん良くなってますよ』なんて話をしてくれるうちに、父も『そりゃあ俺の息子だもんなあ』なんて返したりして。もちろん、僕の前ではそんなこと言いませんけどね。そこからは、もうトントン拍子でした」

 親子間での話し合いでは衝突ばかりだったのが、第三者が入ることによって円滑になり、2016年には事業承継が完了。名実ともに、瀧澤さんが「稲庭うどん瀧さわ家」の代表となりました。

 当時の経験を振り返り、瀧澤さんは「親子間の事業承継で悩んでいる場合は、専門家の力を借りることも視野に入れてみては」と話します。

 今後の展望を聞くと、「とにかく日々を一生懸命に生きること」という答えが返ってきました。そうすれば、必ず次の新しい夢が見えてくる、応援してくれる人が集まってくるのだそう。瀧澤さんが、そして「稲庭うどん瀧さわ家」が抱く新たな夢が楽しみです。

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